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お寺の様子

お寺の様子

宝嶺山 源樹院 充国寺

慶長9年(1604年)以前に開山された浄土宗のお寺です。
加藤越後廣影(旧仙台ホテル 大泉家祖先)、木口八郎兵衛實行(旧菊平旅館 菊地家祖先)の両人が開基となり、新寺の成覺寺第2世良清上人が開山しました。開山以前は国分町にあり寺号は「住国寺」でした。その名の通り国分町の住人が菩提寺として国分町に建てたということが名前の由来となっています。それからほどなく仙台開府にあたり、政宗公のまちづくり事業の一環として1604年に新坂町に移転しました。寺号も「充国寺」と改められ、当寺はこの時をもって開山とし、現在に至ります。

家族墓

充国寺の家族墓は、親から子へ、そして孫へと代々受け継がれていくお墓として、多くのご家族に選ばれています。
家族というかたちが多様化する現代においても、故人を偲び、家族の絆を深める場としてご利用いただけるよう、柔軟に対応しております。
墓所の配置や石碑の仕様などもご希望に合わせてご提案が可能で、生前のご相談や見学も承っております。
永代にわたり、安心してご供養いただける環境を整えておりますので、どうぞご家族皆様でご検討ください。

一般墓

一般墓は、代々続く家族の拠り所として、従来の形式を守りながらご供養を行う墓所です。
充国寺では、墓地の区画サイズや墓石のデザインなどをご希望に応じて柔軟に対応しており、伝統を重んじる方からもご好評をいただいています。
長く受け継いでいく大切な場所だからこそ、見学やご相談の際には時間をかけてじっくりとお話を伺っています。
地域に根ざした寺院ならではの安心感と、きめ細やかな対応で、ご家族皆さまに末永くお守りいただけるようサポートいたします。

ペット供養墓

家族の一員として共に暮らしてきたペットたちに対し、最後まで感謝と愛情を込めて供養したいというお声にお応えし、充国寺ではペット専用の供養墓をご用意しています。
ご希望があれば、納骨に合わせて簡単な法要を執り行うことも可能です。
また、お参りに来られるご家族がゆっくりと過ごせるよう、静かで落ち着いたスペースも整えています。
愛する存在を静かに偲ぶ時間をご提供できるよう、心を込めてお手伝いさせていただきます。

合葬墓

合葬墓は、他の方と一緒に納骨される形式のお墓で、継承者がいない方や、身寄りの少ない方にも安心してご利用いただける供養の選択肢です。
時代とともに「家に縛られない」供養を望まれる方が増えており、その需要は年々高まっています。
充国寺の合葬墓では、永代にわたる供養が約束されており、ご希望があれば個別の法要も執り行っております。
ご遺族が遠方にお住まいの場合でも、安心してお任せいただけるよう、丁寧な管理とご説明を心がけております。

永代集合墓

永代集合墓は、一定期間個別でご供養した後、合同で埋葬する形式のお墓です。
個別性と合同供養の両方を希望される方にとって、ちょうどよい供養のかたちとして選ばれています。
充国寺では、集合墓としての安心感とともに、故人一人ひとりを大切に思う気持ちを尊重し、丁寧にご対応しております。
法要やお参りのスペースも整えられており、ご遺族が気軽に足を運べる環境を整えております。
永代供養でありながらも、「個人としての尊厳」を大切にされる方におすすめの形式です。

本堂

本 尊:阿弥陀如来
脇 侍:観音菩薩(右)勢至菩薩(左)
両大師:善導大師(右)法然上人(左)

宗 派:浄土宗
宗 祖:法然上人
開 宗:承安5年(1175年)
教 え:阿弥陀仏の誓いを信じて「南無阿弥陀仏(お助け下さい阿弥陀さま)」御名を称え、極楽浄土に生まれることを願う
経 典:「無量寿経」・「観無量寿経」・「阿弥陀経」

納骨堂

屋内に設けられた納骨堂は、気候や天候に左右されず、いつでも快適にお参りいただける供養施設です。
近年では、都市部を中心にそのニーズが高まっており、充国寺でもご家族での利用、単身での利用を問わず幅広くご案内しております。
お名前を記した銘板や法要スペースの併設もあり、供養の方法や安置期間もご希望に応じて設定可能です。
定期的な清掃・点検を実施しており、訪れるたびに落ち着いた気持ちで故人と向き合えるよう心がけています。
生前のご契約や見学も承っておりますので、ぜひお気軽にご相談ください。

茶室

境内に佇む茶室は、四季折々の風情を感じながら、静寂と安らぎに包まれる特別な空間です。
茶室では定期的に茶会や茶道教室が開催され、訪れる方々に心静まるひとときを提供しております。
茶道を通じて、日々の生活を見つめ直し、感謝の心を育む場としてご利用いただいています。
外観は自然素材を活かした落ち着いた趣で、内部は簡素でありながらも凛とした空気が漂い、訪れるだけでも心が整います。
茶道にご関心のある方はどうぞお問い合わせ下さい。

遠藤敬止の墓

遠藤けい(1851~1904年)

享年55歳

会津藩士
七十七銀行 第二代・四代頭取
仙台商工会議所 初代会頭

鶴ヶ城趾保存の恩人

鶴ヶ城の払い下げ

明治元年(1868年)、名城鶴ヶ城は1ヶ月の籠城戦を戦い抜き、開城しました。明治7年、城内で20日間の博覧会が開かれ、公開後すべての建物が取り壊され、「荒城の月」に歌われる廃城となった城跡も、明治23年に払い下げが決定しました。
旧会津藩士であった遠藤敬止は、
「この城跡は、戊辰の逆境に当たり硝煙弾雨の間に幾千の魂魄を留めし古戦場なれば、これを保存して千古に伝うべし」
として私財2,500円を投じて払い下げを受け、旧会津藩主・松平容大に献納します。
昭和2年(1927年)に松平家から若松市へ譲り渡された鶴ヶ城跡は、城下町会津若松市のシンボルとして、市民をはじめ会津の人々の誇りとなっています。

会津藩士として戊辰戦争を歴戦

嘉永4年(1851年)会津藩士・遠藤清直の長男として江戸に生まれる。若くして才能を認められ、幕府が開設した開成所(現東京大学の源流)に入学。18歳の時に戊辰戦争が勃発。「これ誠に志士仁人。身を殺して仁をなすべきときなり」
会津に戻った敬止は、鳥羽伏見の戦い・鶴ヶ城の籠城戦に加わり、激戦奮闘するも敗戦。
捕らえられ、江戸の芝増上寺で1年間謹慎生活を送る。

七十七銀行頭取

赦免後は貧困に苦しみながらも独学で英語を修めると、次に慶応義塾に入学。持ち前の才能で簿記や経済学などの学問を次々に修める。大蔵省銀行事務講習所が創設されると、簿記学の講師として招かれる。その才は渋沢栄一の目にも留まり、明治11年(1878年)仙台に第七十七銀行が設立されると、渋沢の推薦を受け、教授役兼頭取となる。次期には教授の役を除き、以来頭取として明治31年まで七十七銀行を牽引した。
墓所左に立つ供養塔は平成15年に厳修された遠藤敬止翁百回忌法要に際し建立された。

遠藤りゅうの墓(左側手前)

遠藤敬止の弟、戊辰戦争時は「白虎寄合一番隊」に所属。慶応4年(1868年)津川から赤谷、舟渡と歴戦したが、9月11日、喜多方市熊倉での戦いで重傷を負い、10月7日死去。享年15歳。会津若松市飯盛山にも碑がある

千手観世音

仙台三十三観音 第2番札所
千手観世音(別名:子安観音)

弘法大師空海作

御詠歌
「来る人はふかきめぐみに大崎や
数ある御手の糸にひかれて」

かつて大崎八幡宮別当であった龍宝寺の塔頭「観瀧庵」にお祀りされていました。弘法大師空海作と伝わるこの千手観音は別名「子安観音」ともいい、当時は札所巡りの賑わいも相まって、子供の無事成長を願う多くの方々の参詣を集めていました。江戸時代の『封内風土記』には「其三、在大崎八幡社下観龍庵中偉云 本尊千手観音 弘法大師作不詳 何時創建 仙豪巡禮三十三處第二番札處也」と記述されています。1868年廃仏毀釈によって観瀧庵は廃寺となり、観音堂のみが残されました。しかし地域の方々によって大切に守られ、2015年からは当寺が後を引き継いでお祀りしています。

御朱印

充国寺 本尊 阿弥陀如来(左)
仙台三十三観音 第2番札所 千手観世音(右)

2種類の御朱印をお授けしています。
朱印帳をお忘れの方は紙の御朱印も用意しております。

十二支守り本尊

十二支守り本尊を信仰する習慣は、平安末期から鎌倉初期に始まったと考えられています。自身の守護仏を祀り、日ごろから感謝の気持ちを込め生活をしていると、より豊かな人生が送れるとされています。

子育地蔵と子育観音

本堂前

山門内

横向き地蔵

クロマツ

仙台市保存樹木(1999年指定)
推定樹齢400年

1604年にお寺が国分町からこの地に移転にしてきた際に植えられました。
1945年7月10日、仙台空襲により充国寺の伽藍はほとんど消失してしまいました。しかしこのクロマツは戦禍を免れ、江戸開府当時からの歴史を知る生き証人として代々住職が大切に守ってきました。そして今もなおご参詣の方々をお出迎えしています。

山門

個別永代供養墓

個別で花や線香をあげてお参りいただける永代供養墓をご用意しています。
ご家族やご自身のお墓として、継承や墓じまいの心配なく、安心してお選びいただける形式です。
納骨はおおよそ4人程度まで可能です。

このお墓は、なるべくお盆供養や年忌法要などの仏事を継続して行いたいという方を対象としています。
仏事を大切にされる方にご利用いただけるよう、管理と供養は寺院が責任をもってお引き受けいたします。